地名の由来としては、4つの谷があった、4軒の茶店があったという2説が伝えられています。前者は千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷の4つと言われますが、それぞれに距離があり、総称するには無理があります。また、後者は梅屋、保久屋、茶屋、布屋の4軒と言われていましたが、後世になって、梅屋以外は地名が付けられてからの開業であることが分かりました。その結果、地名の由来は謎のままになっています。
TokyoRentコラム
Vol.17 地名で読む街の歴史 【 麹町・番町編 】 2007/01/22
内堀通りを挟んで皇居と隣りあう麹町、番町界隈。徳川家康が江戸入府の際、江戸城入場のために通ったのが現在の麹町大通り(新宿通り)といいますから、非常に古くから開発されてきた土地であったことが分かります。その後、江戸時代には大名の中屋敷や旗本屋敷、そしてその屋敷相手の商人たちで賑わい、現在は大使館や学校なども多い静かな住宅街に。明治時代から今に至るまで、多くの文化人に愛された土地でもあり、東京でも最古のお屋敷街のひとつです。
麹町・番町マップ
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四谷

麹町

番町

徳川家康が江戸城の西の守りを固めるため、番町一帯に大番組(旗本のうち、将軍を直接警護する部隊)に属する旗本たちを住まわせたのが地名の起こり。大番組が一番組から六番組まであったことから、町名も一番町から六番町までとなっています。往時は一番町がさらに堀端一番町、新道一番町などと分かれており、後世、それらをまとめたため、江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の境は一致していません。番号の順に町が並んでいないのもそのためです。江戸時代、その分かりにくさは有名で、番町に居て番町知らずなど、数多くの川柳が生まれています。
さて、その番町には明治以降、多くの文化人が住んでいます。ざっと挙げてみると、小説家では武者小路実篤、泉鏡花、島崎藤村、永井荷風、国木田独歩、菊池寛、与謝野鉄幹・晶子夫妻、吉行淳之介など。音楽関係では「からたちの花」「赤とんぼ」で知られる作曲家山田耕筰、同じく作曲家の滝廉太郎や世界のプリマと呼ばれた三浦環……。画家や歌舞伎俳優、政治家と挙げだしたらきりがないほどです。
半蔵門

千鳥ヶ淵

善国寺坂

袖摺坂(そですりざか)

御厩谷坂(おんまやだにさか)

番町更屋敷の真実は?
葛飾北斎「百物語・さらやしき」
井戸の中から、腰元お菊の亡霊が「お皿が一枚、二枚……。一枚足りない」と恨めしげな声で語る怪談、播州皿屋敷。これを歌舞伎の恋愛物語に作り直したのが、麹町生まれの劇作家、岡本綺堂です。彼は徳川幕府の御家人、明治時代には英国公使館に勤務した父のもとに生まれ、幼少の頃から英語に親しみ、シェークスピアを目指して劇作の道に進みました。そこで生まれたのが、番町皿屋敷。
この話は元々、姫路市の十二所神社に伝わる「播州皿屋敷実録」というお家騒動の顛末が原型といわれており、そこでのお菊はお家乗っ取り騒動の探索役です。ところが、敵方に正体がばれてしまい、挙句、家宝の皿をなくしたと因縁をつけられて責め殺されてしまいます。その後何百年かして、城下に奇妙な形の虫が大量発生、人々はお菊のたたりと恐れたのだとか。それが転じて、責め殺されたお菊が井戸の中で皿を数えるという怪談になったというのです。ですから、実際のところ、番町皿屋敷の番町は、ご当地とはまったく関係ありません。では、なぜ、番町に持ってこられたのか。それはおそらく、地形によるもの。古来、盆地の底で、水はけが悪く、洪水が起こりやすいところなどを皿屋敷と称していました。屋敷は特定の建物の意味ではなく、場所、地域ほどの意味。実際、番町も東南に傾斜、特に1丁目と3丁目の境は低地になっていたため、古くは皿屋敷と呼ばれていたのではないかと推察されます。そこで、播州皿屋敷の話が伝わり、尾ひれがついて……。
ちなみに、岡本綺堂の番町皿屋敷ではお菊は旗本青山播磨の気持ちを試そうとして、皿を割ります。私と皿のどちらが大事?というわけです。それに対し、青山播磨は自分の気持ちを試そうとしたお菊の心が嫌だとお菊を切り捨てて、飛び出していきます。怪談ものを題材としながら、テーマはいたって近代的。今見ても、2人の気持ちが十分納得できるお芝居ですから、機会があれば、ぜひ一度ご覧ください。
- 中川寛子(なかがわひろこ)
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借りる、買う、貸す、建てるなど、住まいに関する雑誌、書籍、インターネットなどの編集に携わること20数年。
長らく表参道に暮らし、都心居住の快適さを身をもって実感している。All About「住みやすい街選び(首都圏)」ガイド。

