洗練された大人の街
感度のいいショップやレストラン、隠れ家風なバーなどが点在、大人の雰囲気が人気の恵比寿・代官山・中目黒エリア。山手線のほんのちょっと外側という便利さに加え、桜で有名な目黒川、夕景の見事な西郷山公園など、自然を感じられる場所も多く、オンもオフも充実した暮らしを実現してくれる場といえます。坂と高台の多いこの地域の、地形や歴史を感じさせる地名をご紹介しましょう。
恵比寿・代官山・中目黒周辺マップ
恵比寿
恵比寿駅の名前は、元々ヱビスビールを製造・発売していた日本麦酒醸造有限会社(現在のサッポロビール)の貨物専用駅だったことに由来しています。ヱビスビールが恵比寿駅に由来したのではなく、七福神の恵比寿様に由来したヱビスビールのほうが、先に誕生したというわけです。駅前にはいまでも恵比寿様が鎮座していらっしゃいますし、山手線の発車メロディーもビールのCMに使われた「第三の男」が使われています。ちなみに当初は漢字ではなく「ゑびす」と平仮名の駅名だったそうです。
代官山
元代官所の所有地だったからという、至ってあっさりした理由から明治3年に名づけられました。もとは山林で、現在のようになったのは関東大震災以降のことだそうです。渋谷から一駅の代官山はファッション街として人気が高く、代官山駅の利用者も多いのですが、駅前には小さな広場があるだけのコンパクトな駅です。
中目黒
江戸時代からの上目黒村、中目黒村、下目黒村がそのまま町名になっています。その元となった「目黒」の由来は諸説あり。目黒区の説では、馬が逃げ出さないように盛り土した牧場囲いの土手を意味する牧場の畦道、馬畦(めくろ)が語源とされています。ただ、滝泉寺の不動尊の目が黒かったことから目黒となった、馬の名前から取られたなど諸説があり、はっきりしていません。ちなみに、中目黒駅は住所ではなぜか上目黒にあります。
猿楽町
現在は代官山ヒルサイドテラスの一角にある猿楽塚古墳に由来します。この塚は江戸の名所のひとつとされ、源頼朝がここで猿楽を催しその道具を埋めたという説、金王丸(平治物語で源義朝の侍童として登場する若武者。渋谷の金王坂、金王八幡宮はこの人の名に由来する)が物見をした塚という説など、いろいろな説が伝わっています。高台にあるため、この塚に上ると、富士や筑波、房総の山並みまでが見え、暗い気持ちが晴れる「去我苦塚(さるがくつか)」と呼ばれてもいたそうです。
青葉台
昭和44年に付けられた新しい地名で、以前は上目黒。樹木の多い高台であったことから、青葉の台となったそうです。
鎗ケ崎
駒沢通りと旧山手通りが交わる交差点。恵比寿から向かってこの左手は淀橋台という台地になっており、そこから鎗の穂先のように突き出た地形から鎗ケ崎と呼ばれるようになりました。古くは別所台とも呼ばれたこの高台は、遠く富士山も望めたそうで、中世の豪族目黒氏の館があったとされます。館があったのは中目黒1-1のあたりで、現在の目黒学院高校などがある一画です。
西郷山公園
江戸時代には柳町と呼ばれ、豊後岡(竹田)中川家の屋敷があった場所。当時から庭の美しさは有名だったとか。明治10年に西郷従道(西郷隆盛の弟)が購入、自身の別邸としました。その頃から、西郷山と呼ばれるようになりました。この地にあった木造2階建ての洋館・書院造の建物・庭園は東京一の見事さと謳われたほどでした。しかし昭和16年に西郷家が渋谷に移転、堤康次郎(箱根土地株式会社、今の西武グループの創始者)に売却されると、分譲地として転売され、庭は見る影もない姿に。第二次世界大戦を経て唯一戦災を逃れた洋館は昭和35年に愛知県犬山市の明治村に移築されました。昭和56年、目黒区が邸宅跡地の一部分を公園として公開、現在に至っています。
東山
東山は江戸時代からの地名。上目黒村の中心的集落だった宿山の東の高台という意味です。ここには貝塚、竪穴式住居からなる縄文中期の遺跡が発見されており、北区西ヶ原貝塚、港区丸山貝塚と並ぶ3大貝塚といわれていました。標高25mほどの高台でもあり、昔から暮らしやすい場所だったのでしょう。東山の並びには諏訪山と呼ばれる高台もあるのですが、こちらは地名としては残っておらず、由来も残念ながら不詳です。
新道坂・けこぼ坂
目黒区は台地と台地を刻んで流れる目黒川、立会川、呑川によって侵食された、坂の多い街です。今回ご紹介しているエリアも中央に目黒川があり、川から恵比寿・代官山、中目黒の住宅街へと、それぞれ坂を上らなくてはいけないことになります。
そのうち、新道(しんどう)坂は駒沢通りの鎗ケ崎交差点から山手通りへの坂、そして、けこぼ坂は山手通りから先の駒沢通りの坂で、いずれも事故、渋滞のメッカ。ご利用時は注意を。
ちなみに「けこぼ」とは、切り取られた赤土の斜面から土の塊がざらざらとこぼれ落ちて、道幅を狭める様の方言だそうです。
目切り坂
急坂の多い恵比寿・代官山・中目黒周辺。なかでも屈指の急傾斜を誇るのが、目切り坂です。場所は東急東横線代官山トンネルの真上にある交差点から細い一方通行を入ったところ。あまりに急勾配だったため、斜めに切り通して道を開くしかなく、そのさまがひき臼の目切りに似ていた、また、この坂の上で石臼の目を切る仕事をしていた人がいたなどから名づけられたと言われています。坂を下っていくと左手には桜が多く、ひそかな名所です。
目黒の名物はさんま?筍?
目黒といえば、落語「目黒のさんま」が有名。区の図書カードのイラストがさんまだったり、毎年9月には「目黒のさんま祭り」が行われたりしますが、実は目黒は江戸時代、筍の産地としてそれよりもさらに有名でした。
現在もっとも多く食べられている孟宗竹は中国南部原産で、元文元年(1736年)に薩摩藩主島津吉貴が琉球(沖縄)から移入したもの。それが、江戸に入ったのは40数年後で、三田四国町の薩摩藩中屋敷に数株移植され、それをいたく気に入った幕府御用の廻船問屋山路治郎兵衛が品川戸越村にあった自宅近くに植えたのが、江戸での筍栽培の始まり。その後、鮮度が命と、江戸市中に近い目黒で栽培されるようになり、目黒不動の門前の茶屋で出される筍料理の評判から、広まっていったといいます。
残念ながら、昭和に入ってからは宅地化の影響を受け、筍栽培は減少の一途を辿り、いまでは名物「筍せんべい」などにその名を残すだけ。それでも、春先には西郷山公園や中央緑地公園、すずめのお宿緑地公園など、区内のあちこちで、筍の姿が見られます。生命の不思議ということでしょう。