江戸城を中心にのの字に発展、
歴史を背景にしたまちの多様性が魅力。
現在も新しい歴史、都市再生が進展中
歴史が生んだまちの多様な個性
千代田区は江戸城を中心に発展したまちをルーツとしており、いまだに道路、堀などといったまちの骨格自体は当時から大きく変わっていません。
実際のまちづくりでは江戸城からぐるりとのの字を書くように大名の藩邸、旗本屋敷、町人地が作られてきており、この時にどのようなまちが作られたのかが現在のまちの様子に大きな影響を与えています。
大名の藩邸があったのは大手町、丸の内、霞ヶ関といったあたりで、現在は大手企業の本社ビル、中央省庁が並ぶオフィス街、官庁街となっています。
大名、旗本の屋敷が多く集まっていた麹町、番町などといったエリアには大使館や教会、ミッションスクールなどが点在、高額な住宅も多い地域となっています。
同じ旗本屋敷が多かった駿河台界隈は近代以降、大学や予備校などが多く立地。お茶の水界隈は日本でも最大級の学生街になっています。
神田エリアは町人のまちとして作られ、鍛治町、神田紺屋町、などという町名が残ることからも分かるように職人が多く住んでいました。
オフィス街である大手町、丸の内、邸宅といえるような住宅も多い麹町、番町エリアに学生街の駿河台、庶民的な職人のまち、神田と千代田区はコンパクトな区域の中に多様な個性のまちがあるというわけです。
千代田区は1947(昭和22)年に麹町区、神田区が合併して誕生したものですが、両区、各地域の歴史を知っていればまちの雰囲気も推察できるというものです。
首都の顔として日本初も多数
まちの骨格自体は変わっていないものの、明治以降、まちは首都・東京の顔として大きく変化し続けてきました。
1894(明治27)年に日本初のオフィス街(一般に一丁ロンドンと呼ばれる)の1号館が完成、1903(明治36)年に日本初の近代的洋風公園である日比谷公園が誕生、1914(大正3)年に東京の象徴となる東京駅が創建と、千代田区の建造物等には日本初のとされるものが多いのが特徴です。
その後、関東大震災、東京大空襲で千代田区は大きな打撃を受けます。関東大震災では神田区の人口が約3割減になったほどとか。
東京大空襲では駿河台、神保町、富士見や丸の内の一部が焼け残っただけで、面積の3分2ほどが焼失。20万人以上あった人口は麹町区、神田区合わせてわずか3万人にまで減少してしまいます。
人口減少の歴史を踏まえ、開発が続く
この危機的状況を脱するために区の整理統合を行おうという機運が高まり、麹町区と神田区が合併、千代田区が誕生するわけですが、定住人口の減少はその後も続きます。昭和の終わり頃から平成初期にかけては急激な地価高騰、都心のオフィス街化が進行、住む場所として選ばれにくくなってしまったのです。
そこで千代田区では1984(昭和59)年から市街地再開発事業を開始、最初に変わったのは飯田橋地区です。しかしながらその後も人口減少は進み、1999(平成11)年には合併後最小となる3万9264人を記録してしまいます。
それが定住人口回復基調へ転換し始めたのは2000年以降。特に大きなきっかけとなったのは2002(平成14)年の都市再生特別措置法でした。秋葉原・神田地区、東京駅・有楽町駅周辺地域が都市再生緊急整備地域に指定され、大手町・丸の内・有楽町地区が特例容積率適用地区に指定されました。さらに、大丸有(だいまるゆう=大手町・丸の内・有楽町)ではエリアマネジメントも始まりました。市街地再開発事業での住宅供給も本格化しています。
その結果、2013(平成25)年には定住人口が5万人に、2017(平成29)年には6万人に回復しておきており、2024年4月時点では6万8000人余となっています。
歴史と聞くと過去のものと思いがちですが、千代田区では歴史が今と密接に繋がり、現在に影響を及ぼし続けています。目の前で行われている再開発も歴史が生んだマイナスを転換させようとする試みと考えると、歴史のまち、千代田は今も歴史を作り続けているまちともいえそうです。