【品川区】歴史

縄文時代から人が居住。
交通の要衝、近代化の拠点として発展、
現在も進化が続く

東海道五拾三次 品川・日之出 / 広重
(引用:国立国会図書館)
INDEX

大森貝塚を始め、貝塚、古墳が集積

品川は縄文時代早期から人が住んできた歴史のある土地です。品川区立品川歴史館の「品川の歴史」によると東五反田5丁目付近にある池田山北遺跡、西五反田の桐ケ谷遺跡が縄文時代早期から前期の、区内でも最も古い遺跡にあたるのだとか。その後の縄文時代後・晩期の遺跡としては日本の考古学の出発点となった大森貝塚があります。

現在では想像もつきませんが、現在の大井3・4丁目付近にはかつて6世紀後半の古墳群が存在していたほど。よほどに住みやすい土地だったのでしょう。

大森貝塚遺跡庭園

平安時代以降、港町として、宿場町として繁栄

平安時代末から鎌倉時代には執権の北条氏一門が、室町時代から戦国時代には鎌倉公方・関東管領上杉氏・関東管領上杉氏が相次いで品川エリアを支配しています。

いずれも時代の有力者ですが、彼らが品川エリアを支配した理由のひとつは品川が江戸内湾(東京湾)でも有数の湊だったため。紀伊半島や東海地方、北関東や東北を繋ぐ流通の経由地であり結節点だったのです。

港町として栄えた品川の、北品川、南品川エリアには今も各宗派の寺院が多く集まっていますが、これは江戸時代以前に布教拠点として作られたもの。湊を利用する商人、海運業者によって土地、建物を寄進されており、広大な敷地を持っていた寺社も多かったようです。

江戸時代に入り、品川は五街道のひとつ東海道の第一番目の宿場町として繁栄します。品川区域を支配したのは徳川氏で、これは幕末まで続きます。流通、江戸防衛その他さまざまな観点から品川は幕府にとって大きな意味を持つ場所だったのです。

江戸名所之内 品川の駅海上 / 広重
(引用:国立国会図書館

行楽地、漁業・農業の産地としての顔も

宿場町以外にも品川には多彩な顔がありました。ひとつには「御殿山の桜」「海晏寺の紅葉」「品川沖の潮干狩り」などを有する一大行楽地。往時の風景は浮世絵に残されています。

江戸名所 御殿山花盛 / 広重
(引用:国立国会図書館
江戸名所 品川沖汐干狩之図 / 重宣
(引用:国立国会図書館
東都三十六景 海案寺紅葉 / 広重
(引用:国立国会図書館

漁村という顔もありました。品川区域には南品川猟師町(品川浦)と大井御林猟師町(大井御林浦)の2つの漁村があり、江戸城に魚を納める「御菜肴八ヶ浦」として発展。現在は業としての漁業は行われていませんが、品川浦には今も遊漁船の姿があります。また18世紀はじめには海苔の養殖が始まっています。

もうひとつの顔は江戸市中に野菜を供給する農産物の産地。戸越では筍、品川では蕪、大井では人参などと行った江戸野菜(江戸近郊で栽培されていた在来種の野菜)が栽培され、江戸の胃袋を支えていました。

品川汐干 / 1902(明治35)年
(引用:国立国会図書館
品川海苔取 / 1899(明治32)年
(引用:国立国会図書館
品川浦船溜り

日本の近代化の舞台としての品川

幕末から明治、大正、昭和と品川は長らく近代化の舞台となってきました。幕末にはペリー来航を機に品川にお台場が築造され、品川沖が諸外国との交渉を担った遣米使節団、遣欧使節団の発着地でした。

明治時代に入ってからも品川は日本の近代化の舞台としてさまざまに変化していきます。1872(明治5)年には新橋~横浜駅の鉄道開業に伴い、品川駅が建設され、これが近代的な意味での品川の交通結節点としての始まりとなります。

東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図 / 歌川広重
(引用:東京都立図書館

工業では1873(明治6)年に品川硝子製作所が誕生、その後、明治後期になってからは目黒川沿いには日本ペイント、品川白煉瓦、三共(現在の第一三共)などの工場が続々建設され、人口も急速に増加していきます。

工業ではもうひとつの拠点が大井町駅付近でした。1892(明治25)年に後藤毛織製造所(日本初の民間毛糸紡績工場)が大井村(現在の大井町)に建設されており、それがきっかけとなって大井町周辺に工場が集積、都市化が始まります。1914(大正3)年には新橋から鉄道院(のちの鉄道省→国鉄)の整備工場が移転。現在はその土地で再開発が進んでいます。

品川白煉瓦 / 1965(昭和40)年
(引用:しながわデジタルアーカイブ
三共株式会社品川工場 / 1972年(昭和47)年
(引用:しながわデジタルアーカイブ
国鉄大井工場 / 1974(昭和49)年
(引用:しながわデジタルアーカイブ
東京総合車両センター
大井町駅周辺広町地区開発(仮称)
(引用:東日本旅客鉄道株式会社

関東大震災、近代化で人口増、これからも変化の予定多数

1923(大正12)年の関東大震災では被災者が東京の西側の台地エリアに多く移住していますが、品川区でも同じことがおき、特に荏原地区(品川区西南部。この当時は荏原区)では人口が急増しています。

ところが、その同じエリアが太平洋戦争で広範に罹災します。戦災焼失地図を見ると、東海道線の東側にも消失した地域はありますが、西側は大半が焼けてしまう甚大な被害を受けました。

1947(昭和22)年に品川区と荏原区が合併。新しい品川区が誕生しました。人口は昭和30年代から増加、35年には40万人を超えました。

その後、東京では23区のうち、17区までが人口減少区となるドーナツ化現象が進展しますが、現在の品川区人口は41万人を少し超えた状況まで回復しています。現在も品川駅や品川浦周辺その他で大きな変化が続く品川区ですから、今後も歴史が積み重なり、新しい姿を見せてくれることでしょう。

将来イメージ①品川の伝統や歴史を体感できる旧東海道品川宿
(引用:品川区ホームページ
将来イメージ②品川の水辺の新たな顔となる品川浦の賑わい拠点
(引用:品川区ホームページ
将来イメージ③品川の環境モデル都市を象徴する水と緑の骨格軸
(引用:品川区ホームページ
品川方面

品川区の高級賃貸の歴史

1947
品川、荏原が統合されて品川区が誕生
1964
新幹線が東京~新大阪間に開通
1988
パレロワイヤル長者丸が竣工
2017
目黒第一マンションズが竣工
INDEX