縄文時代から人が居住。
交通の要衝、近代化の拠点として発展、
現在も進化が続く
大森貝塚を始め、貝塚、古墳が集積
品川は縄文時代早期から人が住んできた歴史のある土地です。品川区立品川歴史館の「品川の歴史」によると東五反田5丁目付近にある池田山北遺跡、西五反田の桐ケ谷遺跡が縄文時代早期から前期の、区内でも最も古い遺跡にあたるのだとか。その後の縄文時代後・晩期の遺跡としては日本の考古学の出発点となった大森貝塚があります。
現在では想像もつきませんが、現在の大井3・4丁目付近にはかつて6世紀後半の古墳群が存在していたほど。よほどに住みやすい土地だったのでしょう。
平安時代以降、港町として、宿場町として繁栄
平安時代末から鎌倉時代には執権の北条氏一門が、室町時代から戦国時代には鎌倉公方・関東管領上杉氏・関東管領上杉氏が相次いで品川エリアを支配しています。
いずれも時代の有力者ですが、彼らが品川エリアを支配した理由のひとつは品川が江戸内湾(東京湾)でも有数の湊だったため。紀伊半島や東海地方、北関東や東北を繋ぐ流通の経由地であり結節点だったのです。
港町として栄えた品川の、北品川、南品川エリアには今も各宗派の寺院が多く集まっていますが、これは江戸時代以前に布教拠点として作られたもの。湊を利用する商人、海運業者によって土地、建物を寄進されており、広大な敷地を持っていた寺社も多かったようです。
江戸時代に入り、品川は五街道のひとつ東海道の第一番目の宿場町として繁栄します。品川区域を支配したのは徳川氏で、これは幕末まで続きます。流通、江戸防衛その他さまざまな観点から品川は幕府にとって大きな意味を持つ場所だったのです。
行楽地、漁業・農業の産地としての顔も
宿場町以外にも品川には多彩な顔がありました。ひとつには「御殿山の桜」「海晏寺の紅葉」「品川沖の潮干狩り」などを有する一大行楽地。往時の風景は浮世絵に残されています。
漁村という顔もありました。品川区域には南品川猟師町(品川浦)と大井御林猟師町(大井御林浦)の2つの漁村があり、江戸城に魚を納める「御菜肴八ヶ浦」として発展。現在は業としての漁業は行われていませんが、品川浦には今も遊漁船の姿があります。また18世紀はじめには海苔の養殖が始まっています。
もうひとつの顔は江戸市中に野菜を供給する農産物の産地。戸越では筍、品川では蕪、大井では人参などと行った江戸野菜(江戸近郊で栽培されていた在来種の野菜)が栽培され、江戸の胃袋を支えていました。
日本の近代化の舞台としての品川
幕末から明治、大正、昭和と品川は長らく近代化の舞台となってきました。幕末にはペリー来航を機に品川にお台場が築造され、品川沖が諸外国との交渉を担った遣米使節団、遣欧使節団の発着地でした。
明治時代に入ってからも品川は日本の近代化の舞台としてさまざまに変化していきます。1872(明治5)年には新橋~横浜駅の鉄道開業に伴い、品川駅が建設され、これが近代的な意味での品川の交通結節点としての始まりとなります。
工業では1873(明治6)年に品川硝子製作所が誕生、その後、明治後期になってからは目黒川沿いには日本ペイント、品川白煉瓦、三共(現在の第一三共)などの工場が続々建設され、人口も急速に増加していきます。
工業ではもうひとつの拠点が大井町駅付近でした。1892(明治25)年に後藤毛織製造所(日本初の民間毛糸紡績工場)が大井村(現在の大井町)に建設されており、それがきっかけとなって大井町周辺に工場が集積、都市化が始まります。1914(大正3)年には新橋から鉄道院(のちの鉄道省→国鉄)の整備工場が移転。現在はその土地で再開発が進んでいます。
関東大震災、近代化で人口増、これからも変化の予定多数
1923(大正12)年の関東大震災では被災者が東京の西側の台地エリアに多く移住していますが、品川区でも同じことがおき、特に荏原地区(品川区西南部。この当時は荏原区)では人口が急増しています。
ところが、その同じエリアが太平洋戦争で広範に罹災します。戦災焼失地図を見ると、東海道線の東側にも消失した地域はありますが、西側は大半が焼けてしまう甚大な被害を受けました。
1947(昭和22)年に品川区と荏原区が合併。新しい品川区が誕生しました。人口は昭和30年代から増加、35年には40万人を超えました。
その後、東京では23区のうち、17区までが人口減少区となるドーナツ化現象が進展しますが、現在の品川区人口は41万人を少し超えた状況まで回復しています。現在も品川駅や品川浦周辺その他で大きな変化が続く品川区ですから、今後も歴史が積み重なり、新しい姿を見せてくれることでしょう。