千代田区、中央区、港区はどう変わってきたか
地表面の形や性質、つまり地形が災害と密接な関係にあることはここ数年で知られるようになりました。地形を知ることにより、過去の災害の歴史が分かるのはもちろん、これから起こるかもしれない災害の危険を予測することもできるのです。
ただ、ここで注意しなくてはいけないのは、現在見えている地形は過去からずっとそのままの形であったものではないという点。ご存じのように東京都心部は徳川家康入府の時点では海だった場所も多いエリア。そこを埋立て、河川を掘削するなどして江戸は市街化され、拡大。大きく変化してきました、ここでは千代田区、中央区、港区の都心3区がどのように変わってきたかを見て行きましょう。
土地の来歴を知るのに有効なサイト「今昔マップ on the web」
最初に土地の変化を知るために有効なサイトをご紹介しましょう。東日本大震災後、土地の過去を知るためにと過去の地図(旧版地図)を見に図書館に行く人が多かったという報道がありました。幸い、その後にパソコン上で過去の地図と現在の地図を並べて一度に見られるアプリが登場しました。それが2013年に公開された時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」です。
これは埼玉大学教育学部の谷謙二准教授が開発したもので、首都圏だけでなく、北は札幌から南は沖縄本島南部までの主要な都市の、1896年から2005年までの年代の違う9種類の地図を切り替えながら見ることができます。旧版地図を動かすと現代の地図が追随、さらに旧版地図に置いたカーソルが現在の地図上にも表示されるので、これによって旧版地図のある地点が現在のどこに当たるのかが分かります。古い地図は地名が現在と違う、鉄道や道路など場所を探す場合に手がかりになるものがないなど、慣れていないと見にくいものですが、このサイトを利用すれば、そうした戸惑いなく、過去と現在の違いを見ていくことができます。
都心3区変遷のキーワードは埋立てとお屋敷
さて、都心3区の地形の変遷の大きなキーワードは埋立てです。これには海、河川の2つがあります。
まず、海についてですが、徳川家康が江戸に入った頃には武蔵野台地の東端に位置する江戸城の前には日比谷入江と呼ばれた入江が広がっており、その向うには江戸前島と呼ばれる半島が突き出ていたと言われます。その様子は現在のデジタル標高地形図(1)からもうっすらと読み取ることができます。徳川幕府は入府後すぐに神田台(今の駿河台界隈)を切り崩し、日比谷入江を埋めることから江戸の改造に乗り出し、その後も海側は徐々に埋立てられていきます。非常に大雑把に言うと、江戸時代の海岸線は東海道辺りまで。それより海寄りの埋立ては明治以降、営々と続けられてきたものです。
もうひとつの埋立ては川です。三代将軍家光の頃に描かれたとされる「武州豊島郡江戸庄図」を見ると、今はない、複数の河川が市中を流れていることが分かります。江戸時代の東京を描いた時代小説などにはその当時の江戸はイタリアの水都、ベネツィアのようだったとされ、以降水運の街であったことが分かります。しかし、その後、多くの水路は埋立てられてしまいます。埋立てが大きく進んだタイミングは二度あり、ひとつは関東大震災。もうひとつは第二次世界大戦で、いずれも瓦礫や残土を処理するためでした。それ以外にもいつ埋立てられたか、公式の記録がない河川もあり、水運が廃れるとともに水路も消えて行ったのでした。
地形そのものとは多少離れますが、東京都心部の土地の来歴では旧大名屋敷などの変遷も興味を惹くところ。都心部の大名屋敷は高台の環境の良い場所にあることが多かったからで、その後、明治の元勲、貴族、財界人の屋敷となり、現在はホテルや大学、省庁、住宅などとなっています。そうしたお屋敷だった土地であれば、地盤、住環境ともに安心な場所と推察できるわけです。
続いて3区を順に見て行きましょう。
【千代田区】日比谷入江など主に江戸時代に変化。他区との境には必ず河川が
千代田区の地形は大きく2つに分けられます。その境になっているのが皇居(かつての江戸城)。上のデジタル標高地形図(1)からも分かるように、皇居から東側は低地、西側は台地となっているのです。また、西側の低地の中には東京大学のある細長い本郷台地が南に向かってつきだしており、それがかつての江戸前島に続いています。
千代田区は江戸時代から中心部だったため、入府以来の早い時期から改変が続いており、江戸時代の間にほぼ現在の姿に近いまでになっていたと思われます。前述したように日比谷入江(デジタル標高地形図(1)中央)の埋立ては入府後すぐに行われていますし、岩本町二丁目から鍛冶町二丁目にかけてあったと言われるお玉が池(デジタル標高地形図(1)右上)も寛永9年(1632年)頃にはほとんど埋立てられていたようです。
区内にあった河川にはお玉が池辺りを流れ、神田川に注いでいた藍染川、和田倉門辺りから内濠と外濠を繋いでいた道三堀、日比谷公園の中を流れて外濠川に注いでいた内山下堀などがありますが、これらは明治以降に埋立てられ、今では水路の後すら分からない場所もあります。
確実に跡が分かるのは千代田区と他区の境界。文京区との境が神田川、新宿区との境が外濠というように、千代田区と他区との境は河川。なかには現在は暗渠となった川も多く含まれています。
たとえば、千代田区神田と中央区日本橋の間には1950年に埋立てられ下水幹線となった龍閑川がありました。龍閑川の位置を1927年~1939年の地図上に青く記し、現在の地図を今昔マップon the web上で並べて見たのが上の地図。外堀通りに龍閑橋という交差点がありますが、この辺りから現在の区境辺りを流れ、これまた今はない浜町川という川に注いでいたとされます。この辺りにいまも今川橋という交差点が残っていますが、それはこの川にかかっていた橋の名称です。
それ以外では中央区日本橋、八重洲、銀座との境だったのが外濠川。呉服橋から土橋にかけてが川だったと言えば、その間に橋のつく交差点の多さから納得いただけるのではないでしょうか。都心部では千代田区に限らず、橋とつく地名、交差点名などが非常に多くありますが、それはすべてかつて川があり、橋があったことを示しているのです。
【中央区】日本橋、京橋には多数の水路、湾岸は時代を追うごとに拡大、今の姿に
都心3区のうち、もっともフラットで坂が少ないのが中央区です。それは江戸前島と呼ばれる平坦な半島に加え、江戸時代以降に埋立てられた土地から成っているためで、区内で標高が高いのは銀座から新橋辺りで、標高は4m。他区の最高地点、千代田区六番町の30数m、港区愛宕山の26mなどと比べると、非常に低いことが分かります。
といっても、たとえば江戸前島の先端にあった銀座は、1934年に東京メトロ銀座線工事のために行った地質調査では砂洲の堆積でできた安定した地盤という結果が出ており、低い=危険というわけではないので注意が必要です。ちなみにかつての銀座はすべて川で囲まれていた場所で、分かりやすいのは銀座通りの両端が新橋と京橋で、南北方向を走る晴海通りでは数寄屋橋から万年橋であるという点。全体では周囲に25橋、その内部の東西に6橋があり、大きく変わった場所といえます。
さて、中央区内でも日本橋、京橋エリアは港としての江戸の中心地であったため、かつては京橋川、桜川、築地川、汐留川、三十間堀川、鉄砲洲川、箱崎川、浜町川などの多数の河川が水運を担っていました。しかし、現存するのは上部を首都高速が走る日本橋川と亀島川などごくわずか。多くは首都高速を含め、道路などになっています。
1960年以降数度に渡って埋立てられ、そのうちには1962年に首都高速1号線として供用が開始された日本橋本町~汐留間と重なる部分も。特に銀座から新富町にかけての築地川区間1.2キロは川を干拓、川底に道路が構築されており、半地下の掘割構造に急カーブが連続する区間です。供用開始後50年以上が経過していることから、現在更新が検討されており、川だったことをしのばせる姿もいずれは消えて行くことになるでしょう。道路以外では築地川公園にその名を残しています。
1896年~1909年、1927年~1939年、そして2016年の地図を並べてみると、時代を追うに従い、埋立が進んできていることが分かります。まず、1896年~1909年の時点で陸地になっているのは江戸末期から明治初期に東京港の水深を確保するために行われた浚渫工事で出た土砂で埋め立てられた佃島、月島、勝どきだけです。
その後、30年ほどの間に晴海、豊洲が埋め立てられ、戦後になってから勝どき5丁目、6丁目、晴海の5丁目の半分くらいまでが埋め立てられます。さらに高度経済成長期に晴海埠頭が埋立てられ、中央区は現在の姿になっています。
【港区】古川の両岸に低地、南北に台地が広がり、湧水も多数
千代田区同様に低地と台地に二大別される港区も坂の多いエリア。港区のホームページには90近くが紹介されており、しかも、大名屋敷や住んでいた人にちなむ名称が多いところに街の歴史を感じます。加えて台地と低地の間には湧水が多いのが特徴で、有名なところでは今も武蔵野の面影を残す自然教育園の沢、ひょうたん池や有栖川宮記念公園、根津美術館の池などが淀橋台と呼ばれる台地からの湧水を利用したもの。都心近くながら、意外に自然が残されている場所でもあるというわけです。
千代田区の場合に2つの地形を分けていたのは皇居でしたが、港区の場合には古川。この川の上流は渋谷川で、現在はどちらの川もほとんど水量がなく、コンクリートの護岸に囲われています。そのため、川としての実力が軽視されがちですが、港区の低地はこの川の両岸に広がっており、実は地形を左右する大きな意味を持つ川です。古川沿いの低地として代表的なのは麻布十番界隈(国土地理院デジタル標高地形図(2)中央)。江戸時代、庶民が多く居住、店などが集まっていたのは低地。麻布十番に老舗が集まり、庶民的な下町風情が残されているのはそうした歴史によるものです。
逆に古川を挟んだ台地としては北に麻布、飯倉、青山、赤坂など。南に白金、高輪と三田の段丘があり、三田のオーストラリア大使館辺りから麻布十番方面を見ると、その高低差の大きさがよく分かります。
港区でも他区と同様河川の埋立てが行われてきていますが、それと関わり、往時と大きく変わった場所として挙げられるのは溜池です。現在は交差点、駅名に名残りを残すのみですが、元々は新宿区須賀町辺りから流れ出した水が紀州家の上屋敷(現在の迎賓館、赤坂御所)を流れ、赤坂見附の濠から虎ノ門までに繋がっていたのが溜池の原形だったとか。江戸時代の文献によると非常に広い池だったようです。しかし、1650年頃から埋立てが始まり、明治の半ばにはほとんど姿を消しています。この池と外濠の排水路として作られたのが、千代田区、中央区との境を流れていた汐留川。戦後に埋立てられています。また、汐留川から古川の間には赤坂川、桜川、宇田川などいくつかの河川がありましたが、これらも関東大震災以降で埋立てられています。
海の埋立では浜離宮から品川の港南エリア辺りが中心です。かつて東海道は海沿いを通っており、明治の地図で見ても東海道線は海沿いぎりぎりを走っています。その辺りがよく分かるのが第一京浜の泉岳寺交差点北東側にある高輪大木戸跡。ここは江戸の入り口で、江戸の内外を分ける地点であると同時にかつての陸と海を分ける場所でもあり、そう考えて立つと東京の変化の大きさが実感できるというものです。
また、品川界隈は都心部と並び、宮邸などが多かった地域。上の地図には北白川宮邸、竹田宮邸が見えていますが、すぐ近くには毛利邸もあり、いずれも現在はプリンスホテルに。海には近い場所ながら高台で、往時は海を見渡す眺望の良い場所だったことが推察されます。
以上、簡単に都心3区の地形の変遷を見てきました。いずれも古い街だけに本当はまだまだいろいろな変遷があります。防災的な意味からだけでなく、住む街に愛着を持つという点からもぜひ、自分が住む街、住もうとする街の来歴は知っておいていただきたいものです。
※記事中で利用した地図は今昔マップon the web(©谷謙二)より作成したものです。