江戸時代には多くの大名屋敷、寺院が立地、
それらが大使館、大学などに変貌。
近代化、戦災復興も港区内から
「更級日記」が描く港区の様子は?
港区内の三田台公園に伊皿子貝塚遺跡で発見された縄文時代の復元住居などが再現されていることから分かるようにこの地域は古くから人の居住してきた場所です。
とはいえ、11世紀中ごろに書かれた「更級日記」に描かれた竹芝の海浜部は泥質の砂が広がり、乗馬する侍の姿が見えないほどの高さまで蘆や荻が生い茂っていたとあり、まだまだ寂しい土地であったことが分かります。
大名屋敷、寺院が多かった港区エリア
本格的な開発が始まったのは1590(天正18)年の徳川家康の江戸入府に始まります。港区内では愛宕下(現在の虎ノ門周辺)、増上寺周辺や東海道筋などの造成、整備が1615年~1624年の元和年間から本格的に始まったと考えられています。
低地である愛宕下、汐留地区などに屋敷を拝領した大名屋敷跡地の発掘調査からは土地整備は排水に苦慮、水と泥との闘いであったであろうことが推察されます。また、台地やその周辺の斜面、谷間でも土地の大規模な改変が行われました。
江戸時代の港区エリアで特徴的だったのは大名屋敷が多く集積していたこと。幕末に作成された屋敷の種類ごとの立地を集計した資料によると江戸全体で257カ所にあった上屋敷は港区内には70カ所あり、同様に中屋敷は142カ所のうち50カ所、下屋敷は371カ所のうち107カ所あり、もっとも多かった中屋敷の場合、全体の35%が港区内にあった計算になります。
もうひとつ、多かったのが寺院です。2022(令和4)年の「宗教年鑑」(文化庁)によると東京都には2900に近い寺院がありますが、港区内には約280ヶ寺。神社も約40ヶ社あります。代表的な寺院としては徳川家の菩提寺である増上寺があります。三田には寺院が多く集まる寺町も形成されています。
広大な跡地を利用、大使館、大学の多いまちに
明治に入り、こうした大名屋敷、寺院は大学や各省庁の施設、そして大使館などになりました。たとえば、港区には日本にある大使館のうち、半数以上の約80の大使館が立地していますが、そのルーツは幕末に麻布にある善福寺にわが国初の米国公使館が設けられたことにあるといわれています。港区のインターナショナルな雰囲気は歴史が生み出したものというわけです。
大名屋敷跡地では旧島原藩中屋敷が慶應義塾大学に、石見浜田藩松平家屋敷が聖心女子学院に、摂津三田藩九鬼家下屋敷、信濃松本藩松平家下屋敷が明治学院大学になっており、変わったところでは郡上藩青山家屋敷跡が青山墓地になるなど、さまざまに使われ、現在の港区を形作っています。
明治以降の港区内で特徴的だったのは多くの軍事施設があったこと。現在では想像できませんが、往時は「軍都」と呼ばれる一面があったのです。現在も国立新美術館別館には旧陸軍第一師団歩兵第三連隊の兵舎の一部が保存されています。
当然、区内に居住する軍関係者も多く、特に陸海軍将官の居住が多かったそうで、その当時から高位の人たちが暮らす土地だったと言えます。
1950年代以降オフィスが増加、都心3区に
関東大震災、それに続く第二次世界大戦からの復興では港区内にシンボルともいえる建造物が誕生します。それが芝公園内に設置された東京タワー。1958(昭和33)年の竣工当時世界一の高さを誇った鉄塔は多くの人に希望を与え、現在も東京のランドマークのひとつとして愛されています。
この時期には都心部のオフィスビル建設もラッシュを迎えています。それまで千代田区、中央区中心だったオフィスビルが港区でも多く建てられるようになり、1950年代以降、港区は新たに業務機能を持つまちとして都心三区と称されるようになっていきます。
ちなみに芝区、麻布区、赤坂区が統合されて港区が誕生したのは1947(昭和22)年のことです。
まちの変化としては1964(昭和39)年の東京オリンピックの影響も多大でした。港区内には首都高速道路、東京モノレールが作られ、都心の国立競技場と第2会場となった都立駒沢公園を結ぶ国道246号の整備も行われました。
整備前の青山通りは道路幅が今よりも狭かったのみならず、沿道に低層の家屋が並ぶエリアでしたが、拡幅で風景は一変。ファッションのまちへ変わり始めました。
都心の他区同様、昭和30年代以降は人口減少の続いた港区ですが、1990年代後半からは増加に転じ、2024年1月1日現在の事項は26万6000人超。現在も虎ノ門や六本木界隈、品川周辺などでの開発が続いており、まだまだ変化は続きそうです。
港区の高級賃貸の歴史
日本で初めて”マンション”の名称が付けられた集合住宅
アークヒルズが竣工
ラ・トゥール芝公園が竣工