江戸時代は一大行楽地。
関東大震災、東急東横線の開業で都市化
目黒町、碑衾町が合併して目黒区に
目黒は江戸時代の一大行楽地
江戸時代、幕府は江戸の範囲を示すために朱引と呼ばれる地図を作っています。実際には朱色、墨色の2色の線が描かれており、そのうち、墨色は町奉行所支配の範囲。朱色はそれよりも広い、寺社が建立などで寄付を募ることを許された地域や市民にさまざまな情報を伝える高札が建てられた場所などを繋いだものになっています。
図の墨色の線を見ると、一部、目黒川を越えて外にはみ出している部分があります。文字を見ると下目黒村、中目黒村とあり、このエリアは江戸時代の一大行楽地でした。
中心となっていたのは目黒不動尊(正式には泰叡山護國院瀧泉寺)。目黒駅から目黒川に下る行人坂から目黒不動尊入口までは料理屋や土産物屋がぎっしり並んでいたそうで、名物は目黒飴と呼ばれた飴。当時の賑わいは「江戸名所図会」などにも描かれています。
目黒不動尊は富くじ(今の宝くじ)でも有名で、湯島天神、谷中の感応寺(現在の天王寺)とともに「江戸の三富」と称されたとか。旅行が庶民にとって縁遠いものであった時代にあって気軽に行ける目黒界隈は一大行楽地だったわけです。
将軍家の鷹場だった名残りの地名、鷹番
ただし、賑わっていたのは寺社が集まっていた目黒不動尊周辺だけ。それ以外は田畑、雑木林、竹林などが広がる農村で、将軍家の鷹場もありました。現在も鷹番という地名があるのはその名残りです。
三代将軍家光以降、歴代の将軍は茶屋坂(現在の目黒区立田道小学校横)にあった一軒茶屋に立ち寄ったそうで、歌川広重による「名所江戸百景」には「目黒爺々が茶屋」から富士山を望む目黒の昔の風景が描かれています。
落語で有名な「目黒のサンマ」はこうした将軍家を始めとする諸侯と茶屋の人達との交流を踏まえて創作されたとも言われていますが、定説はないようです。
目黒の名物はサンマと筍!?
サンマほど有名ではありませんが、実は目黒はかつて筍の名産地でもありました。江戸時代から栽培が始まり、最盛期は大正期。目黒不動前の料亭では名物として筍飯が供されていたそうで、太く、柔らかく、おいしいと評判だったそうです。
しかし、関東大震災を機に目黒では宅地化が進み、現在は目黒区内で竹林が見られるのはすずめのお宿緑地公園など限られた場所だけになっています。
鉄道開通後は毎日5軒という勢いで宅地化が進展
目黒の宅地化は1923(大正12)年の関東大震災が契機となっています。関東大震災では東京の西側エリアでの被害が少なかったことから、被害の大きかった東京の東側、東京低地エリアからの人口の移動が始まったのです。
関東大震災と同じ年には目蒲線(現在の東急目黒線)が開通します。この路線ができたことで原町、月光原、大岡山、洗足の人口は一挙に増加しました。
それ以上に影響が大きかったのが1927(昭和2)年に渋谷駅から神奈川駅(横浜駅に近接しているとして1950年に廃駅)間の直通運転が開始した東横線でした。区内の中央を縦貫しており、目黒区ホームページによると鉄道開通からの2年間は毎日約5軒というペースで住宅が増えていったのだとか。住宅以外の商店、工場なども建てられていただろうことを考えると、急増というにふさわしい勢いです。
目黒町、碑衾町が合併して目黒区へ。学校も続々
それを受けて1932(昭和7)年には目黒町と碑衾町(ひぶすままち)が合併して、目黒区が誕生します。目黒区は南北に細長く伸びていますが、そのうちの南側が旧目黒町、北側が旧碑衾町で、境になっていたのは現在の学芸大学駅の少し南側、目黒郵便局の横を通る道でした。
もうひとつ、昭和初期の宅地開発では住宅地としてのイメージアップのために学校の誘致が熱心に行われてましたが、そのために東横線でも駅名が変えられています。
区内の東横線の駅名は当初、中目黒、祐天寺、碑文谷、柿ノ木坂、九品仏でしたが、碑文谷は1935(昭和10)年「青山師範」、その後、「第一師範」を経て現在は学芸大学に、柿ノ木坂は1932(昭和7)年に「府立高校」になり、その後、「都立高校」を経て現在は都立大学へ。九品仏も1929(昭和4)年に自由が丘に改められています。
学芸大学、都立大学ともに現在は移転していますが、文教地区というイメージは今も残されており、目黒区人気に一役買っています。
また、自由が丘への名称変更がまちのイメージを大きく変えたのは周知のところ。女性の集まるまちとして人気を集め、現在は駅周辺で開発が進行中です。