【麹町・番町】地名で読む街の歴史 #03

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学校、大使館の多い、歴史の街

内堀通りを挟んで皇居と隣りあう麹町、番町界隈。徳川家康が江戸入府の際、江戸城入場のために通ったのが現在の麹町大通り(新宿通り)といいますから、非常に古くから開発されてきた土地であったことが分かります。その後、江戸時代には大名の中屋敷や旗本屋敷、そしてその屋敷相手の商人たちで賑わい、現在は大使館や学校なども多い静かな住宅街に。明治時代から今に至るまで、多くの文化人に愛された土地でもあり、東京でも最古のお屋敷街のひとつです。

麹町・番町周辺マップ

四谷

地名の由来としては、4つの谷があった、4軒の茶店があったという2説が伝えられています。前者は千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷の4つと言われますが、それぞれに距離があり、総称するには無理があります。また、後者は梅屋、保久屋、茶屋、布屋の4軒と言われていましたが、後世になって、梅屋以外は地名が付けられてからの開業であることが分かりました。その結果、地名の由来は謎のままになっています。

麹町

家康が市街地を開く際に、麹を作る家があったからとも、高台の地で麹作りの穴蔵が掘りやすく、麹作りを生業とするものが多く住んでいたからとも言われています。また、「小路」が多くあった、武蔵国府(現在の府中市)に向かう「国府路」(こうじ)があったからとも。いずれにしても、古くから人の住む地であったことが分かります。

江戸時代には1丁目から13丁目まであり、そのうち、10丁目までが四谷御門の内側(江戸時代の都心地域)。近江彦根藩井伊家、尾張徳川家、播磨明石藩松平家などの大名屋敷に混じって、高級店が軒を連ねる地域だったとか。その後、昭和9年に6つの町に再編され、現在に至っています。

番町

徳川家康が江戸城の西の守りを固めるため、番町一帯に大番組(旗本のうち、将軍を直接警護する部隊)に属する旗本たちを住まわせたのが地名の起こり。大番組が一番組から六番組まであったことから、町名も一番町から六番町までとなっています。往時は一番町がさらに堀端一番町、新道一番町などと分かれており、後世、それらをまとめたため、江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の境は一致していません。番号の順に町が並んでいないのもそのためです。江戸時代、その分かりにくさは有名で、番町に居て番町知らずなど、数多くの川柳が生まれています。

さて、その番町には明治以降、多くの文化人が住んでいます。ざっと挙げてみると、小説家では武者小路実篤、泉鏡花、島崎藤村、永井荷風、国木田独歩、菊池寛、与謝野鉄幹・晶子夫妻、吉行淳之介など。音楽関係では「からたちの花」「赤とんぼ」で知られる作曲家山田耕筰、同じく作曲家の滝廉太郎や世界のプリマと呼ばれた三浦環……。画家や歌舞伎俳優、政治家と挙げだしたらきりがないほどです。

半蔵門

江戸城の数ある門の中で、唯一人の名前がつけられているのが、ここ、半蔵門。建設当初は麹町御門と呼ばれていたそうですが、伊賀上野の武士で、各種の忍者物語の主人公として知られる服部半蔵が、この地に住まい、門の警護にあたったことから半蔵門と称されることになりました。

千鳥ヶ淵

半蔵門から田安門に至る堀。その昔、雁、鴨、カイツブリなどの水鳥が水上に多く生息していたため、あるいは堀が屈曲しているさまが千鳥に似ていることから名づけられたなどの説があります。お堀端の千鳥ヶ淵公園は桜の名所として知られ、隣接する英国大使館とともに、春には多くの観光客を集めています。

善国寺坂

麹町大通りから日本テレビ(1号館)に向かう途中の坂。坂の上に鎮護山善国寺があったことに由来する地名です。のちに善国寺は牛込神楽坂に移転、今では「神楽坂の毘沙門天さん」として、神楽坂の顔となっています。

袖摺坂(そですりざか)

今では想像もつきませんが、江戸時代には険しく、狭い坂道で、行きかう人が袖を摺りあうようにして通ったことから名づけられています。この坂と五味坂の交差するところに、「荒城の月」「花」などで知られる作曲家滝廉太郎の旧居があり、東京都指定旧跡になっています。

ちなみに五味坂は旧南五番町と上二番町から上る坂で、五二坂と呼ばれていたものが、なまって五味坂となったものと言われています。

御厩谷坂(おんまやだにさか)

徳川将軍家の厩舎があったことから名づけられた地名。この坂道沿いには盲目の学者塙保己一が開いた和学講談所があり、土地には碑が立てられています。また、講談所跡から下った場所、大妻学院のあたりにあるのが佐野善左衛門宅跡。彼は圧政で知られる田沼意次の息子を慙死させたため、切腹、お家断絶となった人物で、事後、庶民からは「世直し大明神」ともてはやされたのだとか。番町は異能の人々が住んでいた場所でもあったわけです。

番町更屋敷の真実は?

井戸の中から、腰元お菊の亡霊が「お皿が一枚、二枚……。一枚足りない」と恨めしげな声で語る怪談、播州皿屋敷。これを歌舞伎の恋愛物語に作り直したのが、麹町生まれの劇作家、岡本綺堂です。彼は徳川幕府の御家人、明治時代には英国公使館に勤務した父のもとに生まれ、幼少の頃から英語に親しみ、シェークスピアを目指して劇作の道に進みました。そこで生まれたのが、番町皿屋敷。

この話は元々、姫路市の十二所神社に伝わる「播州皿屋敷実録」というお家騒動の顛末が原型といわれており、そこでのお菊はお家乗っ取り騒動の探索役です。ところが、敵方に正体がばれてしまい、挙句、家宝の皿をなくしたと因縁をつけられて責め殺されてしまいます。その後何百年かして、城下に奇妙な形の虫が大量発生、人々はお菊のたたりと恐れたのだとか。それが転じて、責め殺されたお菊が井戸の中で皿を数えるという怪談になったというのです。ですから、実際のところ、番町皿屋敷の番町は、ご当地とはまったく関係ありません。では、なぜ、番町に持ってこられたのか。それはおそらく、地形によるもの。古来、盆地の底で、水はけが悪く、洪水が起こりやすいところなどを皿屋敷と称していました。屋敷は特定の建物の意味ではなく、場所、地域ほどの意味。実際、番町も東南に傾斜、特に1丁目と3丁目の境は低地になっていたため、古くは皿屋敷と呼ばれていたのではないかと推察されます。そこで、播州皿屋敷の話が伝わり、尾ひれがついて……。

ちなみに、岡本綺堂の番町皿屋敷ではお菊は旗本青山播磨の気持ちを試そうとして、皿を割ります。私と皿のどちらが大事?というわけです。それに対し、青山播磨は自分の気持ちを試そうとしたお菊の心が嫌だとお菊を切り捨てて、飛び出していきます。怪談ものを題材としながら、テーマはいたって近代的。今見ても、2人の気持ちが十分納得できるお芝居ですから、機会があれば、ぜひ一度ご覧ください。

葛飾北斎「百物語・さらやしき」
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